昭和51年11月1日 朝の御理解
御神訓 一、
「用心は、前からたおれぬうちの杖ぞ。」
用心深いと。例えば風邪が流行してまいりますと、マスクをかけましたりそれやら、いろいろと風邪をひかんように用心を致します。ひいてしもうてからでは遅い。かかる前に用心をしておく。それが用心と言う事でしょう。信心もやはり同じ事。たおれぬうちの杖、用心は前から。信心でいう用心というのはどう言う事だろうかと。もちろん油断をせん事だと思うですけれども。
先日、伊万里に参りました時に、自動車の中からチラッと見たんですけども、自動車の交通安全のための標語が出ておりました。それに「人に用心。車に用心」とこう、なかなかええこと書いてある。普通はまぁ車に用心せよとだけのような感じですね。けれども車にも呼びかけ、人にも呼びかけてあるわけです。人は車に用心しなければならない。また、車は人に心を使わなければならないと言う訳です。
用心しておるように思うておっても、やはり迂闊と言う事があります。またの御神訓に、「神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ」とあります。目にも見えない声にも聞こえてこない、神様を頂くと言う事が信心です。しかもそれを信ずると言う事が信心です。そこで神様のはたらきを信ずる訳ですけれども、その神様のはたらきが目に見えて、声に聞こえてというのではないですから、疑えば限りがない。それを信ぜよというのですから。
けれども私はその疑えば限りがない神様を、限りなく信じていく生き方を身に付けていく。そこにはなるほど神様のご守護の中にあるなぁ、神様のおかげを頂かなければ出来ないと言う事が実感として分かってくるようになる。神様の働きにはもう恐れ入るという生き方。ですから私共が神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんという念が薄らいだ時には、もうすでに用心の心がなくなっておる時と言うてよいのです。もう神を杖についていない時です。
またの御理解にもあります、「金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と仰る。倒れる前の杖というのは、神様を杖につけば楽じゃと仰せられる心が、楽であると言う事は、神様のご守護を受けておるという実感の時です。神様と心が交流しておる時です。いわゆる合楽の時です。「神を杖につけば楽」と仰る。だからそういう杖をついておらなければ、用心すると言う事は言えない。私はこの御神訓は、もう久しぶりに頂いたわけですけれども。
「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」と読んでしまえばそれまでの事ですけれども、倒れぬうちに杖をついておくという神様は、これは信心が本当に分かるというか、神様が分かるというか、神様の働きを実感し得たものでなからなければ、杖をつく事は分からないと思う。これが例えばカゼひきの用心ぐらいだったらですね、薄着をしてはいけないとか、湯冷めをしてはいけないとか、これはちっと風邪気味だというたら、玉子酒でも飲んで休んでおく、休むと言う様な用心が出来ます。
ひきかかった風邪でもそれで用心しますと、ひかんで済む様になる訳ですから、そんなに簡単なものに思うておったけれども、「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」と言う事を御神訓として教えておられるというところにです、これは神様を杖につく事だと言う事です。いうなら神様を信じて疑わないという心が、いつも自分の心にある時を初めて、神様を杖についておると言う事になるのです。そこで信心が分かってくる。信心が段々熱心になって参りますとです。
まぁ普通で申しますね。日参なら日参を続けておる人は、参らんと気色が悪かと。だから参らんと気色が悪かと言う様な信心では、いけないぞと言われますけれども、私もそう言いもし思うても来ましたけれどもです、参らねば気色の悪かという信心こそ、私は神を外すまいとする信心の、まぁ現れだと言う風に思います。なら日参を続けるという人が続けておれば、そこにねだからお参りせんと気色が悪かと言う事は、私は本当は有り難い事だと思うですね。いや気色の悪かから参りよるとじゃない。
参らにゃおられんけん参よると言った様な信心は、とてもとてもこれは大変な信心だと思うです。それが本当です大体は。参らにゃおられんから参りよると。そこにはもう何にもないです。もう言うならもう杖の突きっ放しです。心は安心喜びで一杯です。その喜びが参らにゃおられないのですから。おかげを受けておる事の実感が、御礼参拝しなければおられんのですから。それは最高ですけれども、なら段々信心がね、まぁそれを信心はアヘンなりと言った様な事を申しますけれども是とは違う。
言わばもう飲まなきゃ出来ない様になって来ると言うのと、信心言うならば参りをさせて貰わなければおられないというのは違う。そう言う事を信心のない人が信心はアヘンなりと言った様な事を、言う人があると思いよったけれども、私は今日はそうじゃないと思う。お参りせな気色の悪かと言う程しの、信心が出来た向こうに、参らなければおられないというおかげの実感があると思うです。気色が悪いから参りよるとそうですと言うて、だから良い訳なんです。
そこでお参りすると気色が良いその気色がよいと言う事、その事が杖をつく事なんです。言うならば今日も朝参りさせて頂いた、これで気色が良くなった。その気色が良い事が次の又気色の良いおかげを頂く事になるのです。それが段々ならお参りが遠ざかって来るとです、もう参らんでんどうでもよか事になって来る。気色が悪いと言う事がなくなって来る。そういう時がです、私はもうまぁ取り返しがつかんと言う様な事は、信心においてはありませんですね。
どんなにおかげを落としても、おかげを落とした事が、又おかげの基になる力を受ける基になるですから。取り返しがつかんと言う事はないけれども、言わば転んでひざを打ち割って、それこそあぁ痛いよと言わんならんです。もう間違いなしに神を杖につく事を怠っておる時です。言うならば神を杖についとらんでも、始めの間は気色が悪か気色が悪かと言いよったのが、それが慣れっこになってしまって。気色の悪い事も何にもない。御無礼を御無礼とも気付かん様になる所に。
ちょいとしたものにでも、つまづいて転ばんならんと言う事になります。膝を打ち割ってあぁ痛いよと言わねばならない様な事になるのです。私は信心とはこの気色をだからいよいよ大事にする事だと思うですねそれは信心の程度でです。昨日福岡から龍さんという方がお参りになりました。私はこの前大祭にもお参りして来ておると思うとるもんですから、先日の大祭には大変おかげを頂いたね。と言ったらいいえそれが私はお初穂だけ言付けてから、お参りしておりませんとこう言う。もう随分長い信心です。
もちろん願いのある時しか参ってきません。けれども大祭には参って来ておったと思ったところが、参ってござらなかったとこう言う。それで私はそれは残念なことじゃったな。もう今度はお参りの皆は大変なおかげを頂いたよと言ったら、いいや私はもう月に一回に決めておりますと言うわけです。だからその月に一回のお参りでです、例えば気色の良い人もあるわけです。もうしかも十何年も二十年もでしょうか。信心の程度。ならすぐ近所に川上さんがおられますが。もう三年間日参が続いております。
もう今日はお初穂どころか旅費もないという時がある。けれどもです神様にお縋りをさせて頂いておると、もう確かに間違いなく神様が旅費もお初穂も用意して下さる。先日もお届けしておられましたが、今月はお父さんの給料前に使い切ってしもうて、こりゃお参りがまあだ何日も残っておるのにと思うておるところに、近所のその方の事をずうっとお取次を願うて、お願いをしておられます方ですけれども、お金を少しまとまったお金を持って来て下さって、川上さん使うといて下さいと言うて持って見えた。
そこにね神様の一分一厘間違いのない働きを実感する。その実感がもう参らずにはおられない事になって来る。そこに心はいつもリラックスである。次にシャープなおかげにもなって来るのである。だからこれは信心の例えばなら、昨日から宮崎の御信者さん方が十一名ですか、お参りになっておられます。もちろん月参り月に一回です。けれどもこれは言うならこの近所の方が、毎日日に2回ずつお参りするごたるぐらいあると私は思うです。朝晩お参りするがたぐらいある。
その位に月の一日にはお参りさせて貰わんなん。お参りさせて貰わんならんと、しかも前の日から、こちらへ着かれてその御礼神話会に参加されます。だから今日私は日参と言った様な意味の事を申しましたけれども、日参に値する信心。形の事じゃないです。お供えの金銭の事じゃないです。日参にも値する信心が日々の信心生活の中に頂けておりませんとです、例えばなら大祓信行その十巻なら十巻の大祓を神様の前に、お供えさせて貰うとこう決めておる人はです、もうこの頃は五巻になった三巻になった。
時々はもう御無礼したと言った様な事まで出来てきてもです、心に引っ掛からんごとなった時は、言わば神を杖についていない時です。大祓なら大祓の十巻の大祓を神様は間違いなく受けておって下さる。その受けておって下さると言う事が分かるから有り難い。昨日の宮崎のお婆ちゃんが発表しておられました。大祓を奏上させてもらう。金光様を唱えさせてもらう。日にもうどれだけ唱えるか分からない。最近はその心を神様の前に使わせて頂いておると、家中響き渡るようなお勇みを頂くと言うとられます。
だからもう本当に心行に取り組まなければおられない事になる。心行せなばならんじゃない、この頃は神様の前にお勇み一つなかごとなったような時には、もう言うならば気色が悪かというところからもう、御無礼しとっても何にも平気になっとる時です。そりゃなるほど面倒くさいといえば面倒くさい。けれども神様がやはりおかげをやる事に面倒くさいと思いなさる時です。だから神様の働きも言うならば、お勇み一つも頂けんようになってくる。心に気色の悪かと言う事すら感じんようになって来る。
そういう時にですちょっとしたものにでもつまずいて、こけるような事になるのです。こけてまた起き上がる。起き上がる例えばしながら、信心を進めて行くと言やあそれまでですけれども、いよいよ信心をおかげを頂いて行くためにはです、神様をいつも感じておれれるおかげを、ちょっとごなら無礼があったらです、つまづく前に神様がほら杖を忘れとるぞと肩を叩いて下さらんばかりに、お気付けでも下さるようなおかげを頂きたい。昨夜の信話会に、ここ二、三日私共が福岡での修行中の時分。
もうあの時分の事を知っておられると言うなら、もう秋永先生一人ぐらいの事でしょう。長浜町時代、その時分の話を偶々私が下駄を拾うて歩いておる時分の話が出た時に、それを拾うて私が縄に下げて帰って来る。もちろん一つ宛のやつもあれば、半分ずつのもありゃあ片一方は割れたと言った様な、そう言う様な下駄を拾ってくる。私達夫婦の分だけでなく、子供達の分まで拾うて来る。家内がそれを綺麗に洗うて、干し上げてそして丁度ピッタリ合うのがあると、それを一足にして緒を立てておると。
そういう時分の話が何かの拍子に、二、三日前出た時に、あの時分に私が朝のお参りから帰ってくる、福岡の市内を神様の御神示のまにまに歩いておる、そして帰りにこうやって下駄を下げて帰って来る。あの様子を見てから家内がどんな風に思うただろうかと言う事でございます。本当にもうこげな人と結婚してもうと心の中に思うたか。なんともう情けない事になって来た事かと言う様な風に思うたか。けれどもその時自分の思うてから、そげな顔は一遍もしなかった。
例えば私が拾うて来た下駄を受け取って、洗うて干してと言う事が実にスムーズな、何もなかったように思う。だからあの時分の気持ちをまぁだ一遍も聞いた事がなかった。「お前あの時分に私が下駄を下げて帰って来る時に、まぁの人ばっかりはこんな事ばかりして」と思うたり、なんかその思いがあったけれども、私がその時分の事を思うのに、それこそあのう淡々としてというか、もうまぁ有難くというとどうか分かりませんけれどもね、その下駄を受け取って洗うて干して、石炭箱の中にこうやって詰めとる。
石炭箱二杯ぐらい貯まっておりました。なかなか都合よう合うとがありませんからね、けれどもようよう履くだけは、ちいとはカタカタのとはあるけれども、一足貯まると一足合うのがあるとそれに緒を立てて、子供もそれなり用の下駄をはいて、近所の大名校という大変程度の高い小学校です。に一番近くでそこに豊美が行きよりましたから、私が拾うて来たそして家内が緒を立てた、その下駄をはいて行っておりました時分の事をです、本当にじゅつない事である難儀な事であると言う風に思うただろうかと。
あの時分にお前はどう言う事を思うたかと言う事を、いろいろ聞いてみたんです。そしたらもうその時分の事を思い出したものですけん、返事が返事話が話になりませんでした。感じとしては「ほんにそんな時分がございましたね」と言う訳なんです。中にまぁいよいよその時分に昔話として頂いとるうちに、私共が夫婦で今で言うならば大祓信行ですね。二十巻も三十巻も夫婦で、御神前にお供えをさして貰います。そういう時にあの小さいあのう小指ぐらいのろうそくがございますね、御神前用の。
あのろうそくを立てますと、私共がなら十巻上げても消えなかったという事実があった事を、「本なあげな時分じゃったね。」と言う様な話を夕べ致しましたら、ほんに一回だけあのう途中で消えた事があった。その時に家内が「すみません私がもう今日はこのくらいでやめなさりゃよかろうに。」と心に思うた途端に消えたという話を、昨日家内がしておりました。もうその時分の私達は十巻の大祓を上げなければ、気色が悪かったと言う事になる訳です。
それほどに神様が生き生きと私共の上に、あの小さいろうそくがなら十巻の大祓を上げる間、消えなかったてんなんてん、そりゃまあホントに嘘のような話だけれども事実であったと。そのうち一回だけ途中で消えた事があったが、家内がすぐお詫びをした事を、私も昨夜思い出させて頂いたが、その時家内が先生とは言いませんけんね、お父さん済みませんでした。私がもうやめなさればよかがと思うた途端に火が消えたから、自分としてもはぁ相済みませんという気持ちが起こった訳です。
そういう神様を頂き続けると言う事がです、私は神を杖につく事だと思うです。そういう杖でなからなければ、倒れぬ前の用心と言う事にはならないと思うです。だから私共日々信心の稽古をさせて頂いておるうちにです、迂闊にしてそれを迂闊なのを安心なように思うておる事がございます。神様の働きをそこにひしひしと感じ頂かせて頂いて初めて、転ばぬ先の杖を頂いておると言う事になります。
人に車は用心しなければなりません。人は車に用心しなければならない、用心し合うと言う事。私共がそういう小さい心を、そういう神経を神様に向けておる時には、神様がそういう生き生きとした印を見せて下さり、その生き生きしたものが枯れて、もういい加減にやめなさればよかとこにと思うた途端に、ならおろうそくの火が消える。神様と私共と神様が用心し合うておる時には、そういう些細な事にでも神様が生き生きと働きを見せて下さるものです。
日参するとこう心に誓った人がです、日参を例えば怠ると致しましょうか。そしてそれが引っかかりもせんで気色悪うないならば、それはいよいよ危ないいわゆる転ぶ前提だと思うて間違いありません。もちろん今日は日参と言う事をですね、ならば宮崎の方たちが月に一回のお参りをなさいます。それはなら日参にも匹敵するほどの事だと。問題は心のこと。形の事ではない。心の上に神様を頂き続ける修行が必要だと。その修行から初めて神が声もない形もない。
疑えば限りのない神様だけれども、その形のない神様を声のない声を聞かしてもらう。形のない姿を目の当たりに見る程しの実感があります時に、信心の言うならば転ばんで済むという事は、信心がいよいよ進んで行く、お徳の世界光の世界におかげを頂かして貰う。少しこう邪気味だなぁ。ひどくなっちゃならんと思うて、暖かい部屋にしたり布団を一枚余計着たり、玉子酒でも飲んで休ませて貰おうかと言う様に、いろいろそれ前の用心を致しますような心掛けが、信心の上にもいると言う事。
しかも今日皆さんに聞いて頂いた御理解は、本当に神様があると信じ、神様のおかげを感じさせて頂く、おかげを頂いておっても、人間生身を持っておりますから、迂闊とか油断とかございます。今日はそこまで、信心を進めた人達に対する、私はこれは御教えだと思います。でなかったら今日私の言う事は分からない。私の言う事が分かった人は、言うならば、神様を信じて疑わない人たち、信じて疑わないけれども、やはり迂闊な事が私共にはある。
その迂闊な時にあら杖を忘れとったという気持ちで、また気を取り直す修行をさしてもらう。そこにまた神様を頂き直す事が出来る。用心は前からと言う様に心に掛さして頂きますと、神様もそれと同じに、細かい心を私共に使うて下さいます。そこに本当のあいよかけよ本当の合楽の世界。神様と心がピッタリして来るおかげが受けられます。私共の心の中に神を杖をついておるかいないか、すらも分かっていないような時には、言わばまぁ赤信号と思うて、そこでふと立ち止まって杖を頂き直す神様を頂き直す。
心を正して私共はその気持ちで信心を進めて行くと、神様も同じに用心して下さる。そこになら無事故のおかげと言う事になる。人は車に用心し、車は人に用心する。そこに言うならば安全のおかげを受けられるように、私共と神様との間にそういう交流がなされる時に、そういう用心し合う心が頂けた時に、初めて言うならば安心のおかげというのが頂けると思いますね。
どうぞ。